01.07.10:53
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12.05.06:12
転んだ先で夢見た景色
マンホールの蓋っていうのは人が落ちないために丸いんじゃなかったのか。
空の薄暗い六時ごろ。堅いマンホールにカツンと踏み出した左足が空を切り、突然足を踏み外した俺は、そのままマンホールの中に落ちていった。
暗い、狭い、少し寒い。
どこまでもどこまでも落ちていく。一体いつまで落ちていればいいんだろう。ありえない深さの……穴? 深く深く、地獄の底まで続いていそうな真っ黒の空間に、俺はひたすら落ちていく。
目を開けていても、自分が何処にいるのかわからない。声を出してみても、風をきる落下音で遮られる。手を伸ばしてみても、その先にはなにもない。
俺は何をしているのだろう?
ただただ吸い込まれるように、どこかに向かって落ちていく。その先にあるのは、たぶん……
『死ぬのかな、俺』
気付くと俺は、公園のマンホールの上でしりもちをついていた。
何がどうなったか解らなくて混乱したけれど、すぐに状況を思い出せるようになってきた。
俺は確か、濡れたマンホールの蓋で足を滑らせ、転んでしまっていたんだ。思い出してしまえばなんだそれだけのことかと笑ってしまえる。そういえば頭が少し痛い。気付かないうちにぶつけていたのだろうか。それなら変に混乱した理由もわかる、のか。
とにかく学校だ。
目的を思い出せた俺は、わずかに濡れた制服の染みを気にしながら、また歩きだした。
「おはよー!」
「え? あ、おぅ……おはよう」
登校中、突然同級生らしい男子に声をかけられた。こんなに朝早くから人に会うのは珍しい。知り合いだっただろうか。あんな元気のいいヤツならそうそう忘れたりしないだろうけど、実際はそうでもないのか。
「なんだよ元気ねぇな。俺やることあっから、先行ってるな!」
そういって謎の友人は凄い早さで校舎の方へ走っていった。朝から元気なヤツだなぁと感心させられる。
「よぉシンヅキ!」
今度は下駄箱で呼び掛けられたと思ったら、おしゃれに制服を着崩した、奇妙な装いの男女が立っていた。
誰だアンタたちは。
「なんだよ変な顔して……あ、そっか! シンヅキにはまだ言ってなかったよな。コイツ、二組のヤマグチ。オレたちちょっと前から付き合ってんだ」
「この人ともだち? えっと……ヤマトくんの彼女やってます、ヤマグチ カエデでーす!」
「カエデちゃんの彼氏でーす」
「……おう…………って、ヤマト?」
そういわれて男子の方をよく見てみると、確かにクラスメイトのトガワ ヤマトだった。
「なんだよ、変な顔しやがって。オレに彼女できんのそんな信じらんねぇ? ま、無理もないけどな。オレも下積み時代は随分苦労したもんさ。シンヅキもがんばれよ!」
なんだか妙に馴れ馴れしい。連休明けとはいえ、人はこんなに変わってしまえるものなのか。ヤマトと名乗る謎の友人は、そのままさっさと靴を履き替えて教室に向かっていった。ヤマグチと腕を組みながら。
後ろ姿で思い出したけれど、そういえばあのヤマグチという女子とは、去年同じクラスだった気がする。もうちょっと大人しいヤツだと思っていたから気付かなかった。ということは、あいつらその時に会ったんだ。くっつくならもっと早くくっつけばよかったのに。
「シンヅキくん!」
廊下を歩いていると、また誰かに声をかけられた。今度は女子だ。
「あの、おはようシンヅキくん。今来たとこだよね? 教室まで一緒に行こう?」
とはいえ教室まではあと十数メートル。しかし断るのも変だから適当に頷いておく。
声をかけてきたのは、同じクラスのナガセさん。グループ活動で何度か一緒になったことがあって、それ以来縁があるのかよくすれ違う。いつもうかない顔をしている印象だったけど、どうやら今日は機嫌がいいらしい。表情も明るくて、声もハッキリとしている。
「ど、どうしたの? そんなにジロジロ見て」
「いや、なんというか……イメチェンした?」
「そ、そうだよ! よくわかったね!」
「そりゃあ、これだけ違ってれば誰でも気付くよ」
「そんなに変わってる?」
「あぁ、なんか明るくなった、かな」
「……あ、ありがとう」
正直に言ってしまったら、急にナガセさんは大人しくなってしまった。そうだな、この方が落ち着く。
そのままクラスに入り、席につく。そしたらなぜかナガセさんが俺の隣の席に座った。
「あれ? ナガセさん、その席だっけ?」
「え! そ、そうだよシンヅキくん! この前の席替えからずっとそうじゃない。毎日ってほどじゃないけど、おしゃべりもしてるでしょ?」
「そういえばそうだったかな? ごめん、ちょっと寝ぼけてるみたいだ」
「もう、授業ちゃんと起きてなきゃだめだよ?」
それからしばらく彼女の話に耳を傾けた。実家で迷子になっていた猫がやっと見つかったとか、なんかそういう話。
会話の最中にチャイムが鳴り、担任のハママツ先生が入ってくる。ハママツ先生は優しい先生だとおもうが、人がよすぎるせいで少し頼りない。この前も不良生徒に注意しようとして、逆に生徒に絡まれて他の教員に助けられていた。ハママツ先生はそういう先生。
「ほらほらみんな、ちゃんと席についてー! 出席とるから静かにしてなさいね!」
よく通る大きな声が教室を一瞬で支配した。
「遅刻も欠席もなし? みんなすごいねぇ、うちのクラスはとっても優秀っと」
「せんせー、優秀な生徒に焼き肉おごってくださーい」
「それはだーめ!」
「ハハハハハ」
なんだこれ。
どっと沸き上がるバラエティー番組みたいな笑い声に悪寒を感じてしまう。なんだこれ。いつもこうだったかこのクラス。
っていうか、欠席ゼロってどういうことだ? 確かこのクラスには登校拒否の生徒が一人、病気で入院中の生徒が一人いたはずだ。二人ともずっと学校なんて来ていない。それに、遅刻ゼロ? みんなもう揃ってるってことか? それにしては教室が静かだ。全然頭に入らない担任の朝の連絡も、私語なんてほとんどないままスムーズに終わってしまった。
恐る恐る後ろの方を振り返ると……明らかに、景色が違う。
皆がちゃんと席について、まっすぐにハママツ先生の方を見て笑っている。無関心そうなものもいるが、そんなやつらはこぞって教科書とノートを広げて勉強している。漫画を読んでるヤツも、イヤホンをしているヤツもいない。
入ってくる時は気づかなかったけど、後ろの壁の掲示物が破れも無く綺麗に貼ってある。べこべこに凹んでいた掃除道具入れも、昔っからそうだったみたいにまっすぐ綺麗に立っていた。いつだってゴミわらけでぐちゃぐちゃしていたロッカー回りも、寂しいくらい掃除されている。
「シンヅキくん。もう先生来てるよ」
ナガセさんに小声で言われて前を見ると、一限目のハセガワ先生がいつの間にか教壇に立っていた。
「それでは、授業を始めます」
冷静な教師の一声。生徒は静かにそれに従う。
きりーつ
れい
ちゃくせき
「昨日突然スカウトされちゃって、あたしモデルになるかも」
「次のテストで九十点とったら旅行連れてってもらうことになったんだ!」
「やべぇよ……ここだけの話だけどさ、おれ……ついに宝くじ当たっちゃったんだ」
なんだこれ。
どいつもこいつも夢みたいなことを当然のように言ってくる。まるで異世界にでもいるような違和感。そうだ、異物感。
あれからまた妙なことにばかり巻き込まれて、帰る頃にはもう夕方になっていた。今日の俺はきっと疲れているんだ。さっさと寮に帰って寝てしまおう。
本校舎から少し離れた寮への道。いつもは車だらけの交差点が、今日はとても大人しい。遅延していたビルの工事がいつの間にか再開していて、組んだ鉄の柱が長い格子の影を引く。犬の散歩をしていたお婆さんと、サラリーマンをしていそうな私服のおじさんが、道の角で世間話を楽しんでいる。対岸の道を同じ学校の運動部が掛け声と共に、綺麗に並んで走っていく。遠くから聴こえる吹奏楽は、いつもより音が大きくて鮮明だった。用水路の水が夕陽に照らされてキラキラ跳ねる。
風に揺れる街路樹があまりに綺麗だったから、俺は試しに一息吸ってみた。なんとなく思っていた通り、いつもより空気が綺麗だ。まるで公園でも歩いているみたいな清々しさ。
早く帰ろう。なんだかとても、寂しくなった。
帰宅。寮部屋の鍵を開けると、部屋の中が薄暗くて安心する。この寮は基本的に二人一部屋だけど、俺は同室のヤツが問題起こして転校してから、ずっと一人で暮らしている。まさか自分の部屋にまで変なことは起こらないだろうな。疑り深く部屋の中を窺うけれど、とりあえずは大丈夫そう。
中に入って、靴を脱いで。ベッドの二つ並んだ狭い部屋に帰っていく。カーテンが半開きだったせいで、部屋の中はまだそんなに暗くない。電気をつけようと壁の方を向いたら、ふと据え置き電話に留守電が入っていることに気づいた。
誰からだろう?
そう思って受話器を手に取ると、録音された音声が再生された。
『セキ、元気にしているか?』
男の人の声が聞こえた。
『お前が遠くに行ってから随分経ったけれど、今年はどうだい? 里帰りでもしてみないか? 父さんも母さんも、お前に会いたくて仕方ないんだ。よかったらまた電話してくれ。今日はちょっとタイミングが悪かったかな。それじゃあ、元気でな』
ツー ツーー ツーーー……
「誰だ?」
知らない声、知らない番号、知らない話。
父さん? 母さん? 一体誰の残した音声だ?
いたずら電話だとしても、どうして俺の名前を知っている? 友人からの、タチの悪いいたずら電話だろうか?
驚くとか、怖いだとかそういうのはなかったけど、ただただ奇妙で、不可解だ。何故今日はこんなことばかり起こるのだろう。
みんなみんな楽しそうで、何の疑問もなく贅沢して、いがみ合いもなくて、軽快で。ありもしない、夢みたいなことばかり口ずさんで。
もう一度世界を見渡したくなって、窓ガラス越しに外の景色を眺めてみる。茜色の空はとても綺麗だった。部屋の中からじゃ、それくらいしかよく見えない。
じっと雲の流れを見てぼんやりしていると、暗くなったガラスの中に、誰かの顔が映っていた。
その人はなんだか満ち足りた表情で、何かに憧れるように、まっすぐとした目でどこかを見ていた。
誰だろう?
思わずそう思ってしまったけれど、そんなことは言わなくてもわかる。この部屋には、自分しかいない。
やがてその人は、フッと小さく笑って。教えてくれた
「これが俺の夢なんだ」
気付くと俺は、公園のマンホールの上でしりもちをついていた。
何がどうなったか解らなくて混乱したけれど、すぐに状況を思い出せるようになってきた。
俺は確か、濡れたマンホールの蓋で足を滑らせ、転んでしまっていたんだ。思い出してしまえばなんだそれだけのことかと笑ってしまえる。そういえば頭が少し痛い。気付かないうちにぶつけていたのだろうか。それなら変に混乱した理由もわかる。
とにかく帰ろう。
目的を思い出せた俺は、わずかに濡れた制服の染みを気にしながら、また歩きだした。
遠くの空を、カラスがうるさく飛んでいく。もうすぐ夜がやってくる。
空の薄暗い六時ごろ。堅いマンホールにカツンと踏み出した左足が空を切り、突然足を踏み外した俺は、そのままマンホールの中に落ちていった。
暗い、狭い、少し寒い。
どこまでもどこまでも落ちていく。一体いつまで落ちていればいいんだろう。ありえない深さの……穴? 深く深く、地獄の底まで続いていそうな真っ黒の空間に、俺はひたすら落ちていく。
目を開けていても、自分が何処にいるのかわからない。声を出してみても、風をきる落下音で遮られる。手を伸ばしてみても、その先にはなにもない。
俺は何をしているのだろう?
ただただ吸い込まれるように、どこかに向かって落ちていく。その先にあるのは、たぶん……
『死ぬのかな、俺』
気付くと俺は、公園のマンホールの上でしりもちをついていた。
何がどうなったか解らなくて混乱したけれど、すぐに状況を思い出せるようになってきた。
俺は確か、濡れたマンホールの蓋で足を滑らせ、転んでしまっていたんだ。思い出してしまえばなんだそれだけのことかと笑ってしまえる。そういえば頭が少し痛い。気付かないうちにぶつけていたのだろうか。それなら変に混乱した理由もわかる、のか。
とにかく学校だ。
目的を思い出せた俺は、わずかに濡れた制服の染みを気にしながら、また歩きだした。
「おはよー!」
「え? あ、おぅ……おはよう」
登校中、突然同級生らしい男子に声をかけられた。こんなに朝早くから人に会うのは珍しい。知り合いだっただろうか。あんな元気のいいヤツならそうそう忘れたりしないだろうけど、実際はそうでもないのか。
「なんだよ元気ねぇな。俺やることあっから、先行ってるな!」
そういって謎の友人は凄い早さで校舎の方へ走っていった。朝から元気なヤツだなぁと感心させられる。
「よぉシンヅキ!」
今度は下駄箱で呼び掛けられたと思ったら、おしゃれに制服を着崩した、奇妙な装いの男女が立っていた。
誰だアンタたちは。
「なんだよ変な顔して……あ、そっか! シンヅキにはまだ言ってなかったよな。コイツ、二組のヤマグチ。オレたちちょっと前から付き合ってんだ」
「この人ともだち? えっと……ヤマトくんの彼女やってます、ヤマグチ カエデでーす!」
「カエデちゃんの彼氏でーす」
「……おう…………って、ヤマト?」
そういわれて男子の方をよく見てみると、確かにクラスメイトのトガワ ヤマトだった。
「なんだよ、変な顔しやがって。オレに彼女できんのそんな信じらんねぇ? ま、無理もないけどな。オレも下積み時代は随分苦労したもんさ。シンヅキもがんばれよ!」
なんだか妙に馴れ馴れしい。連休明けとはいえ、人はこんなに変わってしまえるものなのか。ヤマトと名乗る謎の友人は、そのままさっさと靴を履き替えて教室に向かっていった。ヤマグチと腕を組みながら。
後ろ姿で思い出したけれど、そういえばあのヤマグチという女子とは、去年同じクラスだった気がする。もうちょっと大人しいヤツだと思っていたから気付かなかった。ということは、あいつらその時に会ったんだ。くっつくならもっと早くくっつけばよかったのに。
「シンヅキくん!」
廊下を歩いていると、また誰かに声をかけられた。今度は女子だ。
「あの、おはようシンヅキくん。今来たとこだよね? 教室まで一緒に行こう?」
とはいえ教室まではあと十数メートル。しかし断るのも変だから適当に頷いておく。
声をかけてきたのは、同じクラスのナガセさん。グループ活動で何度か一緒になったことがあって、それ以来縁があるのかよくすれ違う。いつもうかない顔をしている印象だったけど、どうやら今日は機嫌がいいらしい。表情も明るくて、声もハッキリとしている。
「ど、どうしたの? そんなにジロジロ見て」
「いや、なんというか……イメチェンした?」
「そ、そうだよ! よくわかったね!」
「そりゃあ、これだけ違ってれば誰でも気付くよ」
「そんなに変わってる?」
「あぁ、なんか明るくなった、かな」
「……あ、ありがとう」
正直に言ってしまったら、急にナガセさんは大人しくなってしまった。そうだな、この方が落ち着く。
そのままクラスに入り、席につく。そしたらなぜかナガセさんが俺の隣の席に座った。
「あれ? ナガセさん、その席だっけ?」
「え! そ、そうだよシンヅキくん! この前の席替えからずっとそうじゃない。毎日ってほどじゃないけど、おしゃべりもしてるでしょ?」
「そういえばそうだったかな? ごめん、ちょっと寝ぼけてるみたいだ」
「もう、授業ちゃんと起きてなきゃだめだよ?」
それからしばらく彼女の話に耳を傾けた。実家で迷子になっていた猫がやっと見つかったとか、なんかそういう話。
会話の最中にチャイムが鳴り、担任のハママツ先生が入ってくる。ハママツ先生は優しい先生だとおもうが、人がよすぎるせいで少し頼りない。この前も不良生徒に注意しようとして、逆に生徒に絡まれて他の教員に助けられていた。ハママツ先生はそういう先生。
「ほらほらみんな、ちゃんと席についてー! 出席とるから静かにしてなさいね!」
よく通る大きな声が教室を一瞬で支配した。
「遅刻も欠席もなし? みんなすごいねぇ、うちのクラスはとっても優秀っと」
「せんせー、優秀な生徒に焼き肉おごってくださーい」
「それはだーめ!」
「ハハハハハ」
なんだこれ。
どっと沸き上がるバラエティー番組みたいな笑い声に悪寒を感じてしまう。なんだこれ。いつもこうだったかこのクラス。
っていうか、欠席ゼロってどういうことだ? 確かこのクラスには登校拒否の生徒が一人、病気で入院中の生徒が一人いたはずだ。二人ともずっと学校なんて来ていない。それに、遅刻ゼロ? みんなもう揃ってるってことか? それにしては教室が静かだ。全然頭に入らない担任の朝の連絡も、私語なんてほとんどないままスムーズに終わってしまった。
恐る恐る後ろの方を振り返ると……明らかに、景色が違う。
皆がちゃんと席について、まっすぐにハママツ先生の方を見て笑っている。無関心そうなものもいるが、そんなやつらはこぞって教科書とノートを広げて勉強している。漫画を読んでるヤツも、イヤホンをしているヤツもいない。
入ってくる時は気づかなかったけど、後ろの壁の掲示物が破れも無く綺麗に貼ってある。べこべこに凹んでいた掃除道具入れも、昔っからそうだったみたいにまっすぐ綺麗に立っていた。いつだってゴミわらけでぐちゃぐちゃしていたロッカー回りも、寂しいくらい掃除されている。
「シンヅキくん。もう先生来てるよ」
ナガセさんに小声で言われて前を見ると、一限目のハセガワ先生がいつの間にか教壇に立っていた。
「それでは、授業を始めます」
冷静な教師の一声。生徒は静かにそれに従う。
きりーつ
れい
ちゃくせき
「昨日突然スカウトされちゃって、あたしモデルになるかも」
「次のテストで九十点とったら旅行連れてってもらうことになったんだ!」
「やべぇよ……ここだけの話だけどさ、おれ……ついに宝くじ当たっちゃったんだ」
なんだこれ。
どいつもこいつも夢みたいなことを当然のように言ってくる。まるで異世界にでもいるような違和感。そうだ、異物感。
あれからまた妙なことにばかり巻き込まれて、帰る頃にはもう夕方になっていた。今日の俺はきっと疲れているんだ。さっさと寮に帰って寝てしまおう。
本校舎から少し離れた寮への道。いつもは車だらけの交差点が、今日はとても大人しい。遅延していたビルの工事がいつの間にか再開していて、組んだ鉄の柱が長い格子の影を引く。犬の散歩をしていたお婆さんと、サラリーマンをしていそうな私服のおじさんが、道の角で世間話を楽しんでいる。対岸の道を同じ学校の運動部が掛け声と共に、綺麗に並んで走っていく。遠くから聴こえる吹奏楽は、いつもより音が大きくて鮮明だった。用水路の水が夕陽に照らされてキラキラ跳ねる。
風に揺れる街路樹があまりに綺麗だったから、俺は試しに一息吸ってみた。なんとなく思っていた通り、いつもより空気が綺麗だ。まるで公園でも歩いているみたいな清々しさ。
早く帰ろう。なんだかとても、寂しくなった。
帰宅。寮部屋の鍵を開けると、部屋の中が薄暗くて安心する。この寮は基本的に二人一部屋だけど、俺は同室のヤツが問題起こして転校してから、ずっと一人で暮らしている。まさか自分の部屋にまで変なことは起こらないだろうな。疑り深く部屋の中を窺うけれど、とりあえずは大丈夫そう。
中に入って、靴を脱いで。ベッドの二つ並んだ狭い部屋に帰っていく。カーテンが半開きだったせいで、部屋の中はまだそんなに暗くない。電気をつけようと壁の方を向いたら、ふと据え置き電話に留守電が入っていることに気づいた。
誰からだろう?
そう思って受話器を手に取ると、録音された音声が再生された。
『セキ、元気にしているか?』
男の人の声が聞こえた。
『お前が遠くに行ってから随分経ったけれど、今年はどうだい? 里帰りでもしてみないか? 父さんも母さんも、お前に会いたくて仕方ないんだ。よかったらまた電話してくれ。今日はちょっとタイミングが悪かったかな。それじゃあ、元気でな』
ツー ツーー ツーーー……
「誰だ?」
知らない声、知らない番号、知らない話。
父さん? 母さん? 一体誰の残した音声だ?
いたずら電話だとしても、どうして俺の名前を知っている? 友人からの、タチの悪いいたずら電話だろうか?
驚くとか、怖いだとかそういうのはなかったけど、ただただ奇妙で、不可解だ。何故今日はこんなことばかり起こるのだろう。
みんなみんな楽しそうで、何の疑問もなく贅沢して、いがみ合いもなくて、軽快で。ありもしない、夢みたいなことばかり口ずさんで。
もう一度世界を見渡したくなって、窓ガラス越しに外の景色を眺めてみる。茜色の空はとても綺麗だった。部屋の中からじゃ、それくらいしかよく見えない。
じっと雲の流れを見てぼんやりしていると、暗くなったガラスの中に、誰かの顔が映っていた。
その人はなんだか満ち足りた表情で、何かに憧れるように、まっすぐとした目でどこかを見ていた。
誰だろう?
思わずそう思ってしまったけれど、そんなことは言わなくてもわかる。この部屋には、自分しかいない。
やがてその人は、フッと小さく笑って。教えてくれた
「これが俺の夢なんだ」
気付くと俺は、公園のマンホールの上でしりもちをついていた。
何がどうなったか解らなくて混乱したけれど、すぐに状況を思い出せるようになってきた。
俺は確か、濡れたマンホールの蓋で足を滑らせ、転んでしまっていたんだ。思い出してしまえばなんだそれだけのことかと笑ってしまえる。そういえば頭が少し痛い。気付かないうちにぶつけていたのだろうか。それなら変に混乱した理由もわかる。
とにかく帰ろう。
目的を思い出せた俺は、わずかに濡れた制服の染みを気にしながら、また歩きだした。
遠くの空を、カラスがうるさく飛んでいく。もうすぐ夜がやってくる。
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